出来た家に自分を合わせる
司会
今日は、会場に建築家の方も来ていらっしゃると思います。その中には内田先生のご自宅をつくってみたいと思っている方もいると思うんですが(笑)、ある意味、内田先生らしいというか、麻雀がきっかけでご自宅の設計を頼んでしまったということで、驚かれた方も多いのではないでしょうか。
五十嵐さん、お二人から「自我のメタファーとしての建築」というお話がありましたが、まずはそのあたりからお話をお願いできますか。
五十嵐太郎
今のお話を聞いて思ったのは、住宅の設計では普通、クライアントがこういう家に住みたいという思いがまずあるわけですよね。その後、クライアントと建築家の、半ば精神分析の治療のような過程というかやり取りがあって、「あなたこういう家に住みたいでしょ?」「いや違う」、ああだこうだとやるんですけど、その辺のところは、意外にあっさりしているんですね。必要な箱の部分さえあれば、むしろ周りの人が思い描く私を受け入れる、それ自体、すごい構造主義的な説明になっているなって思いましたね。
建築家とクライアントは、竣工後は、関係が切れてしまうケースもあるんですが、この建築は、できた後も、最後まで面倒をみるというよりも、建築家が頻繁に訪れることが前提になっているのも面白いですね。
そもそも、先ほどの説明にあった、なぜ光嶋さんなのかって、今日会場に来ている人がみんな、そういう思いで来ていると思うんですけど、依頼時には、どういう設計をする人なのかは全然知らなかったんですか。
内田
挨拶代わりに、こんな仕事をことやっていますって見せてくれて、すごくとんがった仕事している人なんだなと思ったんですが。
五十嵐
住宅の設計を依頼するときには、いろんな建築家をリサーチして、半ばカタログ的にいろんな建築雑誌とかを見て、スペックをチェックしたり、この人と自分は合うかなって迷ったりすることはよくあると思うんですが、一回会って、そこで一緒に麻雀をしたときの、ある種、直感的なひらめきで依頼をされたんですね。



内田
ちょうどその頃に、土地を買う話が決まっていて、そろそろ建築家を探さないといけないなと思っていた、その矢先に彼が僕の家に飛び込んできた。光嶋君て、僕が生まれてから最初に会った生身の建築家なんです。「最初に角を曲がって来たやつに頼め」というのは、僕の基本なので、これも宿命と思って。
五十嵐
家をつくるというのは大変な費用がかかるわけですが、そこでエイヤっていうか、その飛び込み方ってなかなか普通の人にはできないですよね。
内田
なんでもそうなんです、僕は。車を買うのでも、お店に行って「これください」って感じで。今の車も、原チャリで国道走ってたら、BMWのディーラーがあったので、ショーウインドウの前にバイク停めて、入って、「これください」って言って(笑)。だから、営業マンも信じてくれないの。原チャリで来たジーパン履いたオジサンが、「これください」って、キャベツ買うんじゃないんだから(笑)。
五十嵐
それこそ、内田さんの書かれている教育論の中で、師匠と弟子の話がありましたよね。今のお話をうかがって、自分はこの人に付いていくとか、この人を先生と決めるというときに、内田さん自身が実践していることと似たような感じを受けたんですね。誰もが、消費主体として、カタログ的に調べて、いろんな比較を最初にしていくと思うんですが、それとはまったく違う関わり方で飛び込んでいくという、そんな感じがするんですが。
内田
どんなものでも、基本的にそうなんです。人間は生きていく上で、よく知らないことと関わりを持たざるをえない。自分が熟知していることに関しては、決断なんかする必要ないんです。どうすればいいか知ってるんだから。決断しなければいけないことというのは、よく知らないことについてだけなんです。自分はそれに関して情報を持っていない、判断基準がない。そういうことに関してのみ「決断を下す」ということが起きるわけです。そういうときに、素人がなまじな情報や知識に基づいて考えてみても、適切な判断なんかできるはずがないんです。情報過多で混乱するばかりで。でも、素人でも先駆的直感というか、「オーラを感じる力」は備わっている。ぱっと見ただけで「来る」ということはあるんです。
五十嵐
この会場に来ている建築家もこういうありがたいクライアントにはぜひ出会いたいな(笑)と思っていると思うのですが、その直感というのは磨いていくというか、どうやって確信を得たら……。
内田
直感というのもオーバーなんです。たとえば光嶋君じゃなくて、まったく違う建築家とばったり会っていたら、僕はやっぱり「この人こそ宿命の建築家だ」と思い込んで、設計をお願いしたと思うんです。そしたら、これとは全然違う内田邸が出来てくる。そしたら、僕は「ああ、僕はずっとこういう家に住みたいと思っていたんです」と言うと思うんです。そのつど、「角を曲がって最初に来た人」のことを宿命の出会いだと思ってしまう。これが僕にとってはいちばんストレスのないものの決め方なんです。
光嶋
そうした考え方は、その場の環境から受け入れる合気道の考え方にも通じるのでしょうか。
内田
そうですね。これはきわめて武道的な発想だと言っていいと思います。今、ここに与えられた現場がある。それが自分のリアルなわけですから、それを受け容れ、そこから始めるしかない。理想的な状態でなければ始められないというような贅沢は武道家は言わない。だから、「ありもの」で間に合わせる。それが武道的な態度なんです。自分の方を家に合わせる。だから、どんな家を光嶋君が持ってきても、たぶん僕は自分の方の感受性とか生活習慣とかを変えても「いや、これはほんとに俺にぴったりな家だ」と強弁するはずなんですよね(笑)。
五十嵐
実際に設計の打ち合わせで、特にこう変えてくれというような話はなかったんですか。
光嶋
これは内装とかコンペ以外では、僕の建築家として一番最初の建築の仕事ですけど、実はドローイングや版画を依頼されるときでもそうですが、一番大事にしているのが、自分という自我を可能な限りなくして、"乾いたスポンジ"のような状態でお施主さんと向き合うということなんです。今は実績もないですし、経験という意味では比較的容易にこの乾いたスポンジ状態であり得ると思っています。学生時代から建築は勉強していますけど、それをいったんギュッと絞って、乾いたスポンジで内田先生というところに飛び込んでいこうと。また別の新しいクライアントが出てきたら、また乾いたスポンジで飛び込むことによって、その方の夢や敷地の場所、そこの自然環境から何かを吸収してそしゃくすることで形に落とし込んでいこうと思っています。
今回に関しては、基本設計から実施設計に入って、基本的に大きな軌道修正というのはありません。レンガを積んでいくように一つ一つデザインをし、話し合って蓄積されています。最も印象的だったのは、一番最初のプレゼンテーションで僕の設計コンセプトを聞いてくれたことです。それをちゃんと説明してからその後の展開を選んでいくような進め方です。決して、こうしてくれとか、ああでなければならないといった一方的なことではなく、実に具体的なものです。これは熱いからやめてくれとか、掃除できないからいらないと思うといったシンプルでわかりやすいやり取り、対話を重ねています。
内田
わりに問題だったのは、光嶋君自身があまり自分では家事とかそんなにされないので、お掃除のこととか考えていないことですね。この壁って、すごく掃除しにくいんじゃないの?とかね、この窓はどこから拭けばいいの?とか、そういうのはありましたね。最初はトップライトのアイデアがあったんですけれど、僕は屋根の上で窓拭きなんかするのいやだから即、却下。
光嶋
明快ですよ。だから、そういうやり取りという意味でも、いろんなものをぶつけられるというのは、自分の乾いたスポンジというものが試せるというか…変な言い方ですけど。
五十嵐
内田さんのように多彩な活動をされていると、これまでにも建築家との接点がいろいろとあったのではないかと思っていたんですけど、今回の光嶋さんが初めてなんですってね?
内田
初めてなんです、建築。
五十嵐
そういう意味でいうと、最初の光嶋さんのプレゼンテーションでの説明は、建築家であればすごい聞きなれているというか、建築家ってだいたいああいう説明の仕方をするわけですが、新鮮に聞こえたのでしょうか?
内田
すごく新鮮でした。
五十嵐
自分が使っている普段の言語というか考え方と違う感じなんでしょうか?
内田
家の中に、動きがあるとか都市性があるとか、難しいこと考えるなぁって、そんなことどうでもいいじゃん(笑)とか。でも、本人がやりたいっていうから(笑)。彼もこの家の構成メンバーで、僕の自我の一部ということなので、それは受け容れないとね。
共同体と家
五十嵐
だから、そもそもパブリックな空間を抱え込んでいる家なんですね、大きな意味での家族というか。
内田
そうですね。下の道場は、延べにしたら年間何千人という人が出入りする空間ですし、セミパブリックでもよく宴会やりますから。僕の家の宴会って、言ってもみんな信じてくれないんですが、とんでもない数が来るんですよ。前に、芦屋のマンションで宴会やったとき、翌日に管理会社から電話があって、「下の階から音がうるさいって苦情が来たんですけど、いったい何人いたらあんな音が出るんですか!」って言うから、「28人です」って答えたら、そのまま黙っちゃった(笑)。最高では50人超えたときがあるんです。ふつうのマンションの3LDKの、その10畳くらいのリビングにぎっちり詰まって、台所にも廊下にもみんなぎっしり並んで。難民キャンプ状態ですね。そういう宴会が月に1回ぐらいのペースであるので、とにかく何十人も入れる宴会場が必要なんです。セミパブリック・スペースのポイントは台所なんです。そこに宴会用のキッチン、宴会用の流し台、宴会用の冷蔵庫があって、家にやってくる人たちに自分たちの食器やお酒を供託していただく。だからこのセミパブリックの部分に関しては、中の家具もみんなに買ってもらうことにしているんです(笑)。食器やグラスや冷蔵庫、鍋釜の類は、このセミパブリックを宴会場として使うみなさんが持ち寄りで揃えてくださいって。



五十嵐
多くの人が少しずつ自分の家とも思えるような…。
内田
そういう感じですね。そういうのって、必要だと思うんですよね。学生の場合なんかだとよくあることですけど、親と喧嘩しちゃって、家に帰れないとかそういうことあるじゃないですか。そういうときに、その辺でゴロっとしていきなよって言うことができるような場所があるとずいぶん精神的に助かるじゃないですか。今度はロフトもあるんでね。実は、まだ光嶋君には言ってないんだけど、階段の下のところに小さい物置があるんだけれど、あれを物置じゃなくて、書生部屋にして、書生置いちゃおうかなってね(笑)。
光嶋
僕は東京でマンションに住んでいるんですけど、両サイドのお隣さんを知らないんですよ、2年も住んでいるんですけど。年末に麻雀に呼んでいただいて、自分も本でしか知らない内田先生の家に行けるっていうんで喜んで行ったら、まさに今のお話のように先生のマンションにいろんな人たちがいて、編集者であったり、大学の先生だったり、お坊さんもいましたし。
内田
牧師もいたね。
光嶋
みんなで麻雀をしながら、ある種の共同体のようなというか、すごく居心地が良くて、それは、神戸という、外から見たら東京となんら変わりのないところで、こうした共同体があり得るんだなというのが、多様性だったり、先生の自我を考える上での、きっかけになりました。この建物そのものも、都市的な状態であるのが理想的なんじゃないかというのが、屋根の集合体という考え方に繋がったんです。
今の東京の、僕のように両隣を知らない状態で住まうことのあり方というのは、どう思いますか。
内田
それはうちのマンションでもそうなんですよ。僕の部屋にはいろんな人が来るけれども、マンションの隣の人のことはよく知らない。お隣の神戸大学の先生はこの間引っ越してアメリカへ行かれたので、今は空き部屋だし。朝、「おはようございます」くらいのことは言うんだけれども、お付き合いはないんですよね。難しいですよ、マンションの場合は。
光嶋
何かがあったときでも、周りの人との関係がお互いうまくいっていれば、なんら問題ないのでしょうが、頼れる人を電話で呼び出さなきゃいけないような状態に対しては、あそこちょっとやばいぞ!とすぐに集まれる共同体みたいなものが自然と生まれるのが、やはり理想的なのかなと。それが家族という核社会っていうところだけじゃない広がりを持っているところに惹かれたんです。
内田
本当は家族がそういうコミュニケーションというかネットワークの核になるべきだと思うんだけれども、今は家族が弱体化してるから、家族の機能を代理するようなかたちで、地域に根ざしたネットワークが必要だと思うね。徒歩で行ける圏内のところに、自分の家とは別に緊急の避難所、アジールみたいなところがあって、そこに行って「助けて」って言えば、とりあえずの支援体制が整っているということが必要だと思うんですよね。
五十嵐
先ほど、書生さんの話が出ましたが、日本の近代住宅の平面図を見ると、わりと当たり前のように書生部屋や女中部屋があったり、家族の中に、いわゆる今の概念でいう家族ではない人が一緒に住んでいるというのは、そんなに不思議ではなかった。でも戦後は、急速にそれとは違った風景になっていく。建築の世界にはアイデアコンペというのがあって、こういう建物がいいっていうアイデアを主に学生を対象に求めるコンペがあるんですが、僕が一人で審査員をつとめたユニオン造形財団のアイデアコンペで、「非家族と暮らす住宅」という、家族ではない他者とどう暮らすのかというのをテーマに設定したことがあるんです。学生がどういう他者を想定して案を出してくるのかと期待していたんですが、学生から出てきたものには、意外にそういった強い他者のイメージがなかったですね。だいたいは普通の集合住宅に近いし、しかも、自分と似たような他者と共同で住むというようなものが多かった。建築のプランに落とすとシンメトリーが多くて、自分と対称的な他者を想定する。学生たちのそういった案を見て、他者のイメージというのは、学生の生活環境から想像するとそれが最大限で、たぶんシェアハウスというか、一緒に暮らしている住宅には近いけれど、自分と同じようなタイプの他者と暮らすというのが今風というか、そんな感じがしたんですけどね。
内田
そうですね。自分の家族じゃなくて、血のつながりもないし、特に利害関係もないような人、でも、こちらが庇護したり支援したりしなくちゃいけないような人を、自分のテリトリーの中に迎え入れる。これは昔はある程度の社会的地位のある人はどこでもやっていたことですよね。そこそこの地位になったら、家に書生さんや女中さんを置いて。基本的には、自分の出身の村から、志があり見所のある若者を連れてきて、学校に通わせて、いずれしかるべき職に就かせる。女の子だったら、行儀見習いで仕込んで、家から嫁に出すとか。自分自身が育った環境から這い上がってきて、しかるべき地位を得たら、そのリソースを還元して、後続世代にチャンスを提供する。公的な支援が整備されていなかった時代には、そういう準-公的な、中間共同体的なものが、ある種の社会的なフェアネスの実現のために機能していた部分があると思うんです。でも、今は、そんなものはなくていいということになってますね。自分のことは自分でやるし、足りない分は行政がやればいい、と。自立するか行政が面倒見るか、二極化している。でも、やはり、行政だけでは手が届かない社会的な弱者はいますし、あるいは能力があり、野心がありながらチャンスに恵まれない若者もやっぱりいくらもいるわけですよ。そういう人たちがなんとか自立し、自分の夢を実現できるように支援するというのが、ある程度の年齢にいった人間の公民的責務ではないかと思うんです。だから、自分の家を建てるなら、かつての書生部屋や女中部屋に類するような場所があればいいなと思って。若い人たちがそこでいろいろ経験して、育ったら出て行く、そういう一時滞留のための場所を空間的に担保しておかないといけないんじゃないかなって気がしているんです。
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