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建築家インタビュー
佐藤光彦
佐藤光彦/さとう みつひこ
佐藤光彦建築設計事務所
1962年 神奈川県出身
ミリタリー系の図面が好きだった子供時代
――佐藤さんはどのような子供だったんでしょうか。今から思うと建築につながるようなことというのは何かありましたか。
佐藤
建築に具体的につながるような話はないかもしれないですね。幼稚園の頃は病弱で長い間入院してたんです。その間にベッドの上で小学館の図鑑をすべて読みました。何度も。もともと自然科学系のことには興味あったんですが、小学校に上がる頃には、異様にそういうことには知識がある子供でしたね。
――自然科学系でも特にどういう系統に興味があったんでしょうか。
佐藤
最初はやっぱり動物とか昆虫とか、そういったもののほうが多かったかな。あとアポロが月に行ったのはよく憶えていますね。小学校2年生の時には万博に行きましたけど、建築はほとんど記憶にないです。
――万博では何がお目当てだったんですか。
佐藤
月の石とかみんな見に行ってましたけど、とんでもなく人が並んでたので……。ソ連館は行きましたね。あの頃は外国の人が珍しかったので、そっちのほうに目が奪われていたのかな……。建築物で何か憶えているかというとほんとに記憶にない。スイス館は、パーっと光っていてきれいで、ああいうのぐらいしか……。
図面みたいなのは好きだったですね。中学ぐらいからミリタリー系の方向が――戦車とか戦闘機とかそういうものですけど――好きになって、プラモデルとかつくってましたけど、それに伴う資料とか買ってくるんですね。
――そこまで行ってしまうんですか。ふつうはつくったプラモデルで友だちと戦争ごっこみたいなことをしたりして……。
佐藤
そうではなくて、どちらかというとマニアックな方向で。戦闘機や戦車ごとに資料が出てたりするのでそういうのを買ってきたりしていました。
――図面を見てどういうところに注目していたんですか。
佐藤
線で表されているのもがすごく好きで、図面自体が好きでしたね。 第2次大戦中のドイツの戦闘機や戦車というのはものすごくカッコ良くてファンも多いのですが、必要に応じてというより趣味でつくっているとしか思えないほどバリエーションも豊富で。その辺のタイプの違いが図面で表されていたりとか。そういうのはけっこう好きでしたね。 立体が図面で表現されているもの、3面図とかはそのころから親しんでいたことになりますね。
中・高時代は城の石積みと配置
――でも、そういう子供というのはまわりにはあまりいなかったんじゃないですか。
佐藤
地元は川崎のほうで、子供の頃は多摩川の河原でよく遊んでいましたけれども、中学からは東京の中高一貫の学校に通って、そこら辺から地元を離れてしまいましたね。中学受験するまではけっこう勉強してたんですけれども、中学入ってからはもう勉強をしなくなったなあ……。 その学校は変わったサークルがあって、「日本の城研究会」というのがあったんですよ。それで1年の頃から日本各地に行ってましたね。
――日本津々浦々という感じで、お城のあるところはすべて行ってという……。
佐藤
そうですね。高2まででだいたい九州の熊本、大分を結ぶ北半分くらいから、東北はあまり行きませんでしたけど、四国、関西、中部はかなり行きましたね。
――そのあたりは歴史への興味だったんですか、それとも建築に興味があって……。
佐藤
ほとんどの人は歴史が好きなんですよね。司馬遼太郎とか読んだりして。でも僕はどちらかというと建物とか、お城の場合、配置計画を縄張りっていうんですけど、そういうものを見るのが好きでしたね。けっこう大きいのでわかりやすいというか、とっかかりやすかったのかもしれませんね。
――その頃は、この城はここがこう違っていておもしろいなんていう話をされていたんですか。
佐藤
石垣の積み方の違いだったりとか。だいたいお城というと天守閣ですよね。天守閣自体をお城と言っている人もいるくらい。あれは機能的には飾り物ですから、ぼくはどちらかというと石垣の積み方もそうですけど、どういう縄張り、配置計画なのか、そっちのほうが好きでしたね。
――デザインにはもちろん興味はもたれていたんでしょうけれども、どういう材を使ってどういうふうにそれを積み上げているかみたいなところに、ちょっと建築家的な視点を感じます。
佐藤
お城の建築自体はかなり大味なので建物自体はそんなには惹かれなかったですけど。やはり図面を見るのが好きなので、天守閣の望楼型から層塔型への変遷とか、そういうことには興味がありました。
――歴史系の人も図面を見たりするんですか。
佐藤
あまりしないですね、やはり人物関係とかが興味の中心なので。
――そうするとやはり着目の仕方が建築寄りで、そのサークルの中では特殊だったわけですね。 全国を回られてお城でいちばんいいと思われたのはどこですか。
佐藤
石垣が素晴らしいのは、四国の丸亀城、それと熊本と大分のちょうど真ん中辺に豊後竹田というところがあるんですけど、そこに岡城というのがあって、滝廉太郎が「荒城の月」をそこでつくったらしいんですけど、そこの石垣もすごいですね。周囲の環境も含めて佇まいが素晴らしい。
高校後半からのめり込んだ映画と少女漫画
――高校2年生までそういうことをやられて、大学に入る時に建築を選んだというのは、ごく自然にそうなったんでしょうか。
佐藤
僕の行っていた学校はかなりの進学校で、高2までに高3までのカリキュラムが終わって、高3になると自分が受験する学校とか方向に向かって選択科目が始まるんですね。で、僕はほとんどそれは取らないで、名画座とかに通ったりしていましたね。あの頃は300円で3本立てとかで1日いられましたから。映画を観に行き始めたきっかけは、これは名画座ではないですけど、岩波ホールで『家族の肖像』をやっていて、それ以来、ヴィスコンティが好きになって、あと、エルマンノ・オルミの『木靴の樹』とか、アラン・レネの『プロビデンス』とか『去年マリエンバートで』とかそのあたりから観はじめています。
――その頃から、作家で観るっていう感じだったんでしょうか。
佐藤
いや、全然知らなかったですから手当たり次第で……そう言えば『2001年宇宙の旅』が、最初日本で公開してからしばらく公開されなかったんですけど、『2001年宇宙の旅』を上映する会かなんかに入って、16mmかなんかの自主上映で観たな。それでキューブリックもけっこう好きになって。『バリー・リンドン』とか、一通り名画座で観ましたね。
――映画以外では、大学に入る前にどういうものに興味がありましたか。
佐藤
漫画ですね。特に少女漫画系で爆発的に名作が生まれた時期で、萩尾望都とか大島弓子が描いている漫画雑誌とか買って読んでいましたね。
――どうして少女漫画にそれほどのめり込んでいったんですか。
佐藤
ちょっとマニアックな漫画専門誌があって、それを何かのきっかけで読んでからですね。最初に読んだのは大島弓子の『たそがれは逢魔の時間』と山岸涼子の『天人唐草』。たしか『少女コミック』に載っていたのですが、その頃高校生で少女漫画を買うのはなかなか勇気がいりまして(笑)、なるべくふだん行かないような本屋さんに行って買ってくるとかしていましたね。
――少女漫画特有のストーリーテリングと空間描写とに惹かれたんでしょうか。
佐藤
人間の狂気とか精神的なことを主題にしているものが多い、少女漫画のほうは。ストーリーももちろんしっかりしているんだけれども、あと絵が圧倒的にすごかったっていうのはありますね。コマ割りとか複雑で、そうかと思えば見開き全部雪が降っていて真っ白とか。少女漫画以外では、大友克洋がメジャーになりかけの頃で、大学1年のときに『アキラ』が始まって、その少し前あたりからフォローしてましたね。
――多感な時期にそういう少女漫画や大友克洋とかを見て現在につながってある部分ってあるんですかね?
佐藤
ないんじゃないですかね〜。ないと思いますよ。恥ずかしいことに、小説とかはその頃はまったく読んでいなくて。漱石とかは30代に入ってからあらためて読んで…。
――ということはもちろんその前も読んでいたわけですよね?
佐藤
何冊かは読んでいましたが。
――じっくり読み込めるようになったのがその頃だったと。
佐藤
ええ、そしたら滅茶苦茶おもしろくて、漱石はほぼ毎年のように読み返しています。水村美苗が『続明暗』を書きましたが、あれが読み返すきっかけだったかもしれないですね。
どちらかというと理系のほうに興味があったんですけど、意外と文系のほうも好きで、漢文とか得意だったんですよ。『新唐詩選』とか愛読していました。当時はいくつか諳んじてましたよ。
漢字ってビジュアル的に鮮烈じゃないですか、漢詩だと五言絶句とか七言律詩とか形式がはっきりしていて、そこに並んでいる漢字一文字一文字が鮮明なイメージをともなっている、そういうところが好きだったのかもしれないですね。
まあそういう感じで文系のほうも好きで、そういった両方の興味が満足できる対象というのが建築なんだろうなあということが、なんとなく自分のなかで絞られていったんじゃないかと思うんですけどね。
――美術はそのときに佐藤さんのなかでどういう位置づけだったんでしょうか。
佐藤
そんなにセンスなかったですからね。絵がうまいとかいうわけじゃなかったから。展覧会に行ったりとかもなかったですね、その頃は。
――美術に開眼したのは?
佐藤
ちゃんとしたところはけっこう遅いですね。
――ある種の現代アート的な感触が佐藤さんの建築にはあると思うんですけど。たとえば、ここでも壁にボックス状のものが取り付けられていますけど、ドナルド・ジャッドとかは?
佐藤
いま生きているひとのなかではゲルハルト・リヒターが一番好きですね。
――どういうこところが?
佐藤
まず圧倒的なテクニックがあるうえに、さまざまな手法を開発して絵画の領域を広げていくじゃないですか。かつ、すべてが高度に抽象化されているというか。もしお金があったらリヒターの作品を買いたいですね。 ジャッドは一時期興味ありましたけど、すぐ興味なくなりました。
――それはなぜですか。
佐藤
分かりやすすぎるんでしょうか。ミニマリズムという約束事のなかで遊んでいるみたいな感じがする。建築とか勘違いして始めたりして、ああいうのはなんとも思わないですね。
大学1年ではまったル・コルビュジエと村野藤吾
――大学で建築を選ばれて、何をやろうと思われたんですか。
佐藤
ほとんどの人は設計をやろうと入ってくると思うんですけれども、僕も同じですね。大学1年の頃から、勉強してるっていうよりも、好きだったので、コルビュジエ全集とか読んでましたよ。
――1年からですか。
佐藤
夏休みに図書館から借りて全部読みました。どこまで理解していたか分かりませんが。
――それが分かるようになったのはいつ頃からですか。
佐藤
最近じゃないですか(笑)。何度も見るうちにそのときの自分によって見え方が変わってきますからね。サヴォワ邸とかはじめは全然好きだと思わなかったですけども。何回か行ってるとやっぱすごいなと思ったりしますし。
あと、コルビュジエはパースが面白いと思いましたね。独特の、普通の人の眼とは違うポイントから描いているような。ものすごい魚眼なんだけど、歪んでないみたいな。
――今のパースにしろ、子供の頃のお話で出た図面や漢字にしろ、線に萌えるんですかね(笑)?
佐藤
そうかも……図面が好きなんですね。確かに、中学高校の頃とかも、図面を喜んで見てる人とかあまりいなかったですからね。
――コルビュジエ以外ではどういう建築家に興味を持たれていたんですか。
佐藤
大学1年の頃は何でも見ていましたね。コルビュジエのほかに村野藤吾の作品集も良く見ていました。しかも、村野藤吾の和風建築集とか、そういうのを見てましたね。
――1年生でそういうのを見る学生というのはまた珍しかったんじゃないかと思いますが、なんで村野藤吾だったんでしょう?
佐藤
なんででしょうね(笑)。村野さんの和風って、ものすごい薄い軒をつくったりとかしますが、そういう極端に繊細なところと独特の造形性が好きだったのかもしれないですね。
――誰かに教えてもらったとかいうことはないんですか。1年生でいきなり村野藤吾にはまるっていうのも不思議な感じがしますが。
佐藤
いや、たまたまあの頃、新高輪プリンスかなんかができた頃で、異様な造形が気になって、飛天の間とか、そこにいたるエントランスホールとか、興味をもっていろいろ見ようと思ったんですね。
2010年10月22日、setteにて収録。次回の【2】に続く
以下すべて、sette, 2009
写真提供=佐藤光彦建築設計事務所
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