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建築家インタビュー
吉村靖孝
吉村靖孝/よしむら やすたか
吉村靖孝建築設計事務所
1972年 愛知県出身
プロダクトデザイナーになりたかった
――なぜ建築のほうに進まれたのか、そのきっかけみたいなものからまずうかがいたいのですが。
吉村
僕が生まれた愛知県の豊田市はトヨタの企業城下町で、通った小学校もトヨタ本社のすぐ脇でした。ほぼ全員がトヨタの従業員の子供というような状態ですから、モノカルチャーというか、終わりのない均質さに息苦しさを感じながら育ったんですけれども、一方で、出荷を待つ何百、何千台のカローラが原風景で、量産されるものへの憧れもある。この車たちが世界中の道路を駆け巡るんだなぁとわくわくしながら眺めた記憶があります。そうした憧れから、将来はプロダクトデザイナーになりたいと思っていました。高校生くらいになると、よく授業をさぼって図書館でそれらしき本を探したり、デザイン系のシンポジウムを聴きに行ったりしていましたね。そうこうしているうちに進路を決める時期になって、あらためてプロダクト系のデザイナーの経歴を見てみると、建築学科出身の人がいたりして。それで自分は建築学科に行くものだと思い込んでいました。建築学科に行けばプロダクトデザイナーになるためのコースもあって、そういう将来があるに違いないと思っていたんです。
――建築、あるいは建築家に憧れてということではなかったんですね。
吉村
ではないですね。田舎ですから手に入りにくいデザイン系の雑誌はわざわざ定期購読したりしていて、フィリップ・スタルクの新作は知っているんだけど、ル・コルビュジエは知らないという、早熟なんだか何だかよくわからない高校生でした。雑誌に磯崎新さん、安藤忠雄さん、妹島和世さんなどが取り上げられていたことが記憶に残ってますから、建築家という職能があることは理解していたはずですが、自分はプロダクトデザイナーになるものだと思って建築学科に行ったという感じです。
――それで早稲田大学に入られて、工業デザインから建築の方に意識がシフトしていったのはいつぐらいですか。
吉村
僕は中途半端な学生で、ものすごく優秀というわけでもないし全然できないというわけでもない。何となく乗り切れないというか、何をやっても確信が持てないようなところがありました。入学が1991年で学部の卒業が95年ですが、当時は僕だけじゃなくて建築界全体が宙吊り状態だったと言っても良いかもしれません。バブルの残り香はあるんだけれども、先は短い。方向転換しなければならないという現実があるけど、行き先は見えない。そういう雰囲気に引きずられてたというか、波長が合ってしまったようなところがありました。
なので、学部時代は本当に建築学科で良かったんだろうかという疑問を胸にノルマをこなしていくだけです。そうこうしているうちに大学院進学を決める時期が来て、その年新しくできた古谷誠章研究室に入ることにしました。これが建築とちゃんと向きあうきっかけとして大きかった。古谷先生も着任したばかりでしたし、事務所のスタッフの方々も学生の僕たちと年齢が近かったこともあって、実務も研究も渾然一体という感じでともかくいろんなことに取り組みました。僕が一番最初に関わらせてもらったのはせんだいメディアテーク(*)のコンペでした。1等を取られた伊東豊雄さんの建物は2000年代の代表作になりましたが、僕らも善戦して2等をいただきました。
*せんだいメディアテーク:仙台・定禅寺通りに建つ図書館、ギャラリーなどの複合施設
――古谷研を選んだ理由というのは?
吉村
僕を評価してくれたのは古谷先生だけだったんですよ(笑)。ほかを受けても採ってもらえなかったと思います。早稲田は設計の課題が2本立てになっていて、美術館とか学校とか、いわゆる建築を年4つ設計する「設計製図」と、2週間に一度くらいのハイペースで小さな課題を解いていく「設計演習」というのがあって、当時は「設計実習」と言っていたんですが、その2本立ての課題のうち、僕は「設計製図」が苦手で、「設計実習」は得意。古谷先生は3年生の「設計実習」を担当されていたので、ごくごく自然に、古谷研に行くものと思い込んでいました。あまり進路で悩む経験をしていないんです。
きっかけはせんだいメディアテークのコンペ
――古谷研に入られて、いろいろとやられた中でもメディアテークのコンペの体験というのが意識を変えていく上では大きかったのでしょうか。
吉村
だと思います。つくる過程での先生との議論は抜群に刺激的でしたし、それがある意味予想を超えて評価されるというオマケもついてきて……でも、生意気にも、コンペに取り組んでいる最中は「打倒伊東豊雄」とか言いながらやっていたんですよ(笑)。
――伊東さんが出てくるというのは違いないと予想していて、あそこに勝たないと、と。
吉村
そうなんです。それで連日徹夜で盛り上がっていて、「打倒伊東豊雄」の想定問答をしていた。まあ半分冗談というか、口からでまかせのような大風呂敷ですが、ふたを開けてみたら本当にそれに近いことが起こっていて。驚きました。それで建築ってなんか面白いんじゃないかと思ってしまった。
――具体的にはどういうふうにはまりこんでいったんですか。
吉村
メディアテークの古谷案というのは、その提案自体に、建築の原点回帰というか、情報空間との適切な棲み分けによって実空間の存在根拠を取り戻すというストーリーが組み込まれていますから、僕の宙ぶらりんも同時に解消されて行きました。宙ぶらりん時代は、建築って本当に必要なの?という学生にありがちな問題意識をどうしてもぬぐい去ることができなくて。柱が1本あると空間ができると言うけれども、柱なんか無くても、たとえば地面に描かれたバスケットボールのコートだって建築的な拘束力を発揮する。実体としての建築がなかったとしても、意識の中で生まれては消え、消えては生まれということを繰り返すような建築、状況的、現象的な建築がある。その可能性に傾倒するあまり、まったく手が動かなくなっていたんです。そういえば、課題でマンガを描いて提出したこともあります。図面や模型はなし。それは当時非常勤で教えていただいていた小嶋一浩さんが気に入ってくれました。
――あくまでもコンセプチュアルなアプローチで、モノの世界には行かなかったわけですね。
吉村
メディアテークのコンペがあったのは95年です。その年は建築への信頼を揺るがすような出来事がいくつもあって、たとえばオウム真理教による一連の事件もそのひとつです。大学では古典宗教建築の宗教的な機能について教わりますが、オウムの信者は頭にデジタルガジェットを装着してビデオを見ながら解脱を目指している。無論肯定的に報道されているわけではないものの、建築にまったく価値を見出ださない人々の存在が強烈に印象に残りました。それから阪神・淡路大震災があって、高速道路や高層建築など絶対に壊れないと思いこんでいたものがふらふらと倒壊してしまった。それまで蓄積していた建築への不信感のようなものが、いっせいに白日の下にさらされてしまったと感じました。一方で、このままじゃだめなんだという感覚がはっきり共有できて、古谷案のポジティブな切り返しにつながっていく。回路がつながるような感覚がありました。
古谷案の内容は、今で言うところの携帯電話みたいなものを持って館内を散策してもらい、その端末、つまり情報空間に検索性能を肩代わりしてもらうことによって、実空間の方はより複雑でより混沌としていたとしても成立させることができる、というものでした。建築は、予測不能な出来事に満たされたバザールのような場となるわけですが、それが建築に残された唯一の可能性じゃないかという案だったんです。当時そんな情報端末はまだなかったわけですけれども、そういったヴィジョンを描けたことで、スッと腑に落ちるというか、建築が将来にわたって存在意義を持ち続けるという確信を得ることができたのです。それで建築が面白くなっちゃったんですね。
――そこではまったと。
吉村
はまってしまいましたね。卒業後はプロダクトやグラフィックなど建築以外の道があるんじゃないかと長らく思っていましたが、それで迷いはなくなりました。僕らは歴史的に見てコンピュータをはじめて使った世代なんかではないですが、建築学科で個人的にパソコンを持っている人はまだ少数派で、コンピュータがもたらす社会の変化について正確に論じようという機運はあまりなかったように思います。どちらかというとイメージ先行。光が明滅しているとか、情報が流れていくとか、ウェブだから不定型な網だとか。実体を持たないところが情報空間の特性なのに、ブラウン管の解像度とか、シリコンチップの模様とか、些末な実体に引きずられてしまっていた。一方僕らが考えたような、物理的な空間がないことで検索性能がアップし、データベース化が進むといった話と、図書十進分類法的な物理空間の整理術とを重ねて、あたらしい建築の姿を模索するというアプローチは今も有効な課題だと思います。
千mの超高層案
――古谷研では、メディアテーク以外ではどういったものをやられたんですか。
吉村
たとえば「ハイパースパイラル」というプロジェクトを担当しました。高さ千mの超高層を建てたらどうなるかというスタディですね。ゼネコン各社も参加した勉強会を経て、最終的に、パオル・ソレリとレム・コールハースと古谷誠章がその超高層建築の提案をまとめてそろってシンポジウムをやったんですよ。その古谷案を担当して、東京駅の真上にビルがとぐろを巻いて千mまで到達するという案をつくりました。
――とぐろを巻くというのは?
吉村
まず千mの超高層というと、もはや建築ではなくて都市と見なすべきじゃないかと考えました。ここで言う建築というのは、24階に行くのも48階に行くのも1階でエレベーターに乗ってボタンを押すだけで、階と階の間にまったく関係がないような今の超高層建築のことです。そのままでは、どこまで規模を大きくしたって都市的なものにはなりえないのですが、歩いて隣の階に行けるようにして階同士の関係を回復すればずいぶんとましになるんじゃないかと考えました。つまり縦にのびるんじゃなくて横にのびるべき、と。横にのびると早晩敷地をはみ出てしまうわけで、それはできないから結果的にぐるぐるととぐろを巻いたわけです。
――それはどういうビルディングタイプで構想されたんでしょう? 効率性とかが問題にならないようなビルディングタイプなんですか。
吉村
プログラムは特定していません。高層部分では地上と異なるであろう気候を利用して特殊な野菜を栽培する農園をつくったらいいのではなんて話もありました。郊外まで抱えた都市そのものといったイメージです。用途は特定しないけれど、何から何まで短期賃貸みたいな不動産のスキームを提案しています。今で言うカラオケボックスとかインターネットカフェに近いような感じで、短時間特定の場所を専有するための料金を支払って、そこで寝たりお風呂に入ったり本を読んだりリビングでくつろいだりする。所有権を厳密に設定しないで、みんなでそこに住み込んでいる超高層みたいなものを提案しています。
――その短期賃貸という考え方は今の吉村さんのお仕事につながっているように思えるんですが、これは吉村さんのアイデアだったんですか。
吉村
今となってはどんなプロセスで生まれたアイデアだったかまで覚えていませんが、たしかに現在まで継続的に考えている課題です。バブルで土地の値段が高騰したことも関係しているかも知れませんが、都市空間に設定された所有の形式が重すぎると思えた。当時はちょうど、カラオケしながら始発を待つような生活がリアルに感じ始められた時期だったし、もっと適当に、短期間だけ占有してまた別の場所に行くみたいな、そういうライフタイルが可能なんじゃないかと。草原の遊牧民のような感じ。古谷研ではモンゴルのゲルの研究もやっていますから、それも影響しているかもしれません。モンゴルは土地に所有権が設定されてない国で、土地の専有という概念がない。そういう制度を、東京のど真ん中で持ちこんだら面白いんじゃないかと。
大学院で得た自信
――古谷研で得たものというのを総括するとどうなりますか。
吉村
研究室には結局99年くらいまでいたんですが、それはちょうどインターネットの普及期と重なります。一般的な大学生が手軽に扱うようになった時期です。なので、情報技術が建築の空間をどのように変えるのかということを夢想した時期だったとまとめても良いと思います。
――そして、そうしたテーマを、建築のなかでは、先端的にわりと早い時期に取り組めたと。
吉村
そうですね。メディアテークはその最たるもので、自分で言うのも変ですが、けっこう早かったんじゃないかと思っています。しかも結果的に息の長いテーマになった。先日亡くなったウイリアム・J・ミッチェルの『シティ・オブ・ビット』という本が書かれたのが96年ですから、その前年の議論としては精度も飛距離も悪くない。
――建築と情報技術というテーマに早い時期から取り組みしかも高い成果を上げた、そういう自負みたいなものは建築を本格的にスタートする上で非常に大きかったですか。
吉村
そうだと思います。自信になりましたね。
2010年12月24日、吉村靖孝建築設計事務所にて収録。次回の【2】に続く
早稲田大学古谷誠章研究室
+昭和女子大学杉浦久子研究室+NASCA
「せんだいメディアテークコンペ案」模型
以下すべて、画像提供=NASCA
同模型(最上階からの眺め)
古谷誠章+早稲田大学古谷誠章研究室+NASCA
「ハイパー・スパイラル・プロジェクト」模型
同模型(地上からの見上げ)
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