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Aプロジェクト連続講座第5回 縮小社会の設計 クリティーク
「物語の有効性」―僕たちは何と戦っているのかー
2024年06月15日(土) 14:00〜
「過去・現在・未来をつなぐ建築のつくり方」
2023年11月16日(木) 18:30〜
「偶然が必然になるとき」
2023年10月28日(土) 14:00〜
「住宅の像が変わるとき」
2023年06月09日(金) 19:00〜
「ポストコロナ―新しい時代に向かって」
2022年06月24日(木) 18:30〜
「庭と建築」(オンライン・レクチャー)
2021年09月16日(木)18:30〜
「誰かの選択肢になりうる形式について」
2020年09月07日(月)18:30〜
「異なる世界に巻き込まれながら建築をつくる」
2020年08月07日(金)18:30〜
「二拠点で活動する二人の女性建築家」
2020年01月17日(日)19:00〜
2018.09.26
「時間がよびさます建築」
イベントリポート
2018.02.26
「テクトニクスの現在形」
イベントリポート
2016.11.22
第14回Aプロジェクトシンポジウム「工業化住宅の可能性と今後の行方」
イベントリポート
2016.08.18
第15回Aプロジェクトシンポジウム「21世紀の住まい」
イベントリポート
2016.06.30
「日常と連続したケアのデザイン 建築家とつくる新しい医療と介護の場」
イベントリポート
2016.06.30
Aプロジェクト連続講座
第13回
「つなぐ建築」時代の空気と思考の飛距離
イベントリポート
2015.05.15
Aプロジェクト連続講座
第10回
空間の描き方−建築家と小説家の対話−
イベントリポート
2015.01.31
Aプロジェクト連続講座
第12回
「アイドルと建築」 —— どちらが希望を与えることができるか
イベントリポート
2014.09.29
Aプロジェクト連続講座
第11回
ハウスメーカーと建築家の協働の接点を考える
イベントリポート
2012.01.29
Aプロジェクト連続講座
第5回
縮小社会の設計
クリティーク
togetter
2011.12.10
Aプロジェクト連続講座
第4回
新しい建築のリアリティ
クリティーク
2011.06.18
Aプロジェクト連続講座
第3回
都市空間をせめぎあう
情報と建築
イベントリポート
クリティーク
2010.09.11
Aプロジェクト連続講座
第1回
どこに向かうの?
日本の「住まい」
イベントリポート
2010.03.10〜20
デザイナーズ集合住宅の過去・現在・未来展
10+1 issue1
10+1 issue2
excitet.ism
2023年 イベント履歴
2022年 イベント履歴
2021年 イベント履歴
2020年 イベント履歴
2019年 イベント履歴
2018年 イベント履歴
2017年 イベント履歴
2016年 イベント履歴
2015年 イベント履歴
2014年 イベント履歴
2013年 イベント履歴
柄沢祐輔(建築家)
Aプロジェクトの連続シンポジウムの第五回目が開催された。パネラーは東浩紀、坂口恭平。モデレーターは藤村龍至という構成である。タイトルは「縮小社会の設計」。この題名と内容を掲げるシンポジウムがこの時期に催されることのタイムリーさにまず深い驚きを覚えた。いうまでもなく昨年の東日本大震災と原発事故、および欧州経済危機の日本経済への影響は、私たちが暮らすこの日本という社会の未来への信頼と安心を著しく崩壊させた。そして震災や原発事故、世界経済の混乱の余韻がいまだ収まらない今日、台頭しつつある新たな不安が、日本社会の大規模な「縮小」という、人口の推移分布などの各種統計予測が示す、私たちが逃れることのできない日本社会の未来像である。
この日本社会の「縮小」という問題、つまりは大幅な人口減とそれに基づく経済・市場規模の縮小と今日でさえも緊迫する財政状況などなどの、今後予想される社会問題がどのように解決されるのか。いやその解決の糸口が果たして存在しえるのか。先行きのまったく不透明な今日の社会において、どのような積極的な提案が成されえるのか。またそこでの建築家の姿とは。都市の姿とはいかなるものなのか。タイトルだけでも著しい期待を喚起させられるシンポジウムの内容決定であったといってよい。またそのシンポジウムをこの時期に行うことを決断したミサワホームAプロジェクト室の英断には、惜しみのない賞賛の声が寄せられるべきであろう。
シンポジウムの冒頭に藤村氏は野村総合研究所が発表したリサーチ「人口減少時代の住宅・土地利用・社会資本管理の問題とその解決へ向けて」の内容を引用し、“このまま現在の割合で新築戸建て住宅を建設していった場合、2040年には、空き屋率は43パーセントに達する”という衝撃の数値を提示した。実際には需給のバランスから空き屋率が高くなれば新築の着工件数が低下するであろうことは容易に推測されるため、これはいささか極端な数値予測ではあろう。しかしいずれにせよ近い将来、日本には無数の空き屋が林立し、その殆どが管理者がいないまま、国土全体に放置される。(おそらくは郊外か地方都市にこの風景は顕著なものとなり、地方駅前の「シャッター商店街」ならぬ郊外や地方都市近郊の「シャッター住宅街」が日本各地に出現することになるだろう)。この状況は翻って建設産業全域に影響を及ぼす。43パーセントの空き家が生み出されるならば、将来の建築的な需要は、いわば限りなく半減に近い状況になることが予測されるからである。果たしてそこでの建築家の役割とはどのようなものになるのか。藤村の冒頭の発言はそのような意味を多分に含んだ極めて挑戦的な問いかけであったといえるだろう。
それに対して応答を遂げたのは坂口恭平氏。「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」「TOKYO0円ハウス0円生活」などの数々の書籍の著者として知られるこの建築家は、0円で作ることが可能なモバイルハウスで生活し、都市のゴミ(坂口氏は「幸」(さち)と呼ぶ)を収集しサバイバルを繰り広げる過激な都市のライフスタイルの提唱者であり、震災後の原発の事故をきっかけに放射能から安全な熊本に新政府を樹立し、その「初代総理大臣」となった。Twitterでの彼の呼びかけを元に、実に多くの人間が彼の“統治”する“新政府”に押し寄せたことは、一部では広く知られている。
坂口氏は藤村氏の問いかけに、近作のプレゼンテーションのスライドを見せながら、新しいライフスタイルの提示を自作のさまざまなデザインのモバイルハウスの設計と共に行い、都市に溢れるゴミを集めることによって、ゼロ円で生活が可能な「労働を必要としない」社会が生み出されると説く。これは一面藤村氏が問うた今後の新しい社会の状況に相応しい、過激で極限的なヴィジョンの提示であるとは言えるだろう。しかし東浩紀氏はこの坂口氏のヴィジョンに対して、難渋を示しながらさまざまな問いかけを行った。曰く「ライフスタイルがサステイナブルではないのではないか」「若いうちには無理ができるというだけでないのか」等々。その後の議論は、坂口氏が提案し、そして自ら実践を行っている極限的なライフスタイルに対して、東氏の「それは現実的でない」「一般的でない」という応酬に終始をしたといえるだろう。
一方で東浩紀氏は、昨年末に「一般意思2.0」を上梓し、情報システムによって民意を可視化することによって新しい政治のあり方、国家のガヴァナンスが可能であることを説き、自身が編集長を務める「思想地図β」の次号では、国家のグランドヴィジョンについての議論を予定しているという。しかしながら、藤村氏が「一般意思2.0」と縮小してゆく今後の日本社会の関係について質問を投げかけたところ、東氏は「一般意思2.0」についてはこの場では語りたくない」と述べるに留まった。これは会場を訪れた大部分の聴衆にとって、おそらくは非常に残念な回答であったに違いない。東氏の「一般意思2.0」のアイディアが縮小を遂げてゆく今後の日本の社会のヴィジョンとどのように関連するのか(あるいはしないのか)、大多数の聴衆の関心がこの部分にあったであろうことは想像に難くないからだ。
筆者自身、この「一般意思2.0」と「縮小社会」の関係が語られることに大きな期待を寄せ、またその議論が坂口氏のカウンターカルチャー的なヴィジョンとどのように関連付けられるのかに注視をしたいと思っていたのだが、残念ながらシンポジウムは両者の意見を統合した知見を生み出すには至らなかったように思われる。しかしながら藤村氏がモデレートの最中に発言をしていた様々な内容には、今後の縮小社会の設計を考える上で有益な知見が散見されるのではないかと思われた。藤村氏は坂口氏と東氏の応戦をまとめるために、坂口氏に「その提案やライフスタイルが実現できるより建築的なモデルを提出するのはどうか」と問うた。これは非常に的を得た指摘だといえるだろう。東浩紀氏も述べていたが、極論を語ることは言説を流通させるために、あるいは研究をおこなうためには有効な戦略であるにせよ、それが一般解としての有効性をもつことは極めて困難である。藤村氏の指摘は、坂口氏の「都市型狩猟採集生活」あるいは「0円ハウス」という極端なライフスタイルの提案から、より実社会において意味を持つライフスタイル、あるいは建築の姿へと、昇華されえる可能性があるのではないかという提言なのだが、筆者自身も、もし坂口氏がそのようなより一般解へと昇華された新しいライフスタイルや建築の姿の提出をおこなったならば、より提案は魅力的で一層示唆を含むものになったと思うからである。この点に関しては、今後坂口氏と藤村氏が対話を重ねることによっていかなるアウトプットが生み出されるのか、期待をしたいところである。また、「縮小社会の設計」というシンポジウムのタイトルの持つ問いかけに対しても、藤村氏が質疑の中で、今後の「縮小社会」における建築家の姿としてプロジェクトを成立させるための「ストーリー」を組み立てることの重要性を語っている点には深く共鳴した。いままでのように建物が無条件に建つ時代ではなく、新しい時代においては、プロジェクトの与件の組み立てから建築家が介入してゆくという作業は、今後より一層の重要性を持つことだろう。1970年代のヨーロッパの絶望的な不況の時代に、当時デビューを果たしたばかりのレム・コールハース、アイゼンマン、ザハ・ハディド、ベルナール・チュミら、いわゆる「脱構築の建築家」達が、書物とダイアグラムとヴィジュアルを介してストーリーを組み立てて表現を行っていたことを、今後の社会における建築家という職業は不可避的に反復せざるを得なくなっているとも言えるだろう。
「縮小社会の設計」という問いに対して、建築家の職能とはどのように変化を遂げてゆくかというヴィジョンは上の藤村氏の発言のように、ある一定の回答が与えられたといっていいだろう。それでは一方で肝心の建築や都市の姿は一体のように変化を遂げてゆくのか。さらには縮小を遂げた私たちの日本の社会、そこにおける人々のライフスタイルはどのように変化を遂げているのだろうか。
私の考えでは、その姿は、坂口恭平氏の提出する放浪型のライフスタイルと東浩紀氏の提出する「一般意思2.0」のような情報システムの浸透が不可分に組み合わされた、新しいライフスタイルと建築、都市、社会のあり方の実現なのではないかと思われる。
坂口氏の「都市型狩猟採集生活」はある意味昔から提案されてきた「遊牧民的スタイル(ノマドロジー)」の変奏であるといってよい。(哲学・文学では80年代の浅田彰の「逃走論」、建築では伊東豊雄の風の変容体シリーズ「レストラン・ノマド」など、枚挙に暇がないであろう)。このノマド的な生活のスタイルは、実のところ今日の日本において再考されなくてはならないように思われる。なぜならば、日本の都市の一極集中が今日の日本の都市と経済の問題ではその問題の根幹に関わる原因となっており、その問題を解決するためには一極集中を防いでいかに多極中心の地方分権型の都市像、社会像を生み出すことが急務だからである。(ここでは詳細に触れないが、筆者が2009年にICCの展覧会で展示した「中心が移動し続ける都市」はそのような問題意識で生み出されており、多極中心でかつそれぞれの中心が時間軸で移動し続けてゆく都市のモデルを提示した)。ここで問題なのは、現在さまざまな識者が提案するように、もはや地方分権の必要性は自明ではあるものの、しかしながら誰からも「どうやって地方へと人口を分散させるか」という問題への有効な方法の提示がないことである。おそらく東氏の「一般意思2.0」のアイディアに見られるような、インターネット上のSNSなどの情報システムの更なる進化とその活用は、この地方分権を促進するための有効なシステムを生み出す可能性がある。
たとえば日本全国のどのような場所でどのようなイベントが行われているか。どのような人々がどこに集まり、次にどこへ去ってゆくか。共同体が空間上でどのように集まり、どこで何が繰り広げられているのか。そのような一覧とタイムラインがマッピングされるソーシャルアプリケーションは今後必ず開発されるものと思われる。(それは現在日本中で行われている音楽フェスなどのタイムテーブルと現在のSNSが組み合わさったものをイメージすると想像しやすい。大規模なフェスでは複数の会場で複数のタイムラインが出演するアーティスト達の登場の順番を表示するが、このようなタイムテーブルが領域を問わずさまざまなアクティビティを包含し、日本全国に渡ってマッピングされ、日本全国のどこで何が次に展開するかを知らせるという類の新しいソーシャルアプリケーションである。仮にここでは「分流のアプリケーション」と名づけたい。)そこで人々が集合離散を日本全国のレベルで展開を遂げてゆけば、いずれ地方分散、地方分権の問題は、より一層解決可能なものとなってゆくだろう。そして近い将来日本には有り余るほど空き屋が溢れ、それらは時間軸で変化を遂げてゆくアクティビティ、集合離散を繰り広げるコミュニティ(島宇宙)の受け皿となることだろう。そこで建築や都市は、この人々の集合離散を促すタイムテーブルを管理する新たなSNSのような情報システムと一体となり、より仮設的でテンポラリーな性格を強めてゆくだろう。もし固定的な建物が必要とされるならば、それはタイムライン上の結節点として、よりアクティビティが固定的なもののために作られることになるだろう。「縮小社会の設計」とは、そしてそこにおける建築と都市の姿とは、おそらくはこのようなイメージをその基軸に据えるものとなるだろう。本シンポジウムで提出されたアイディアは、そのようなイメージへと連なってゆく一つの流れの中にあるのではないかと私には感じられた。
(2012年2月6日)
Aプロジェクトの連続シンポジウムの第五回目が開催された。パネラーは東浩紀、坂口恭平。モデレーターは藤村龍至という構成である。タイトルは「縮小社会の設計」。この題名と内容を掲げるシンポジウムがこの時期に催されることのタイムリーさにまず深い驚きを覚えた。いうまでもなく昨年の東日本大震災と原発事故、および欧州経済危機の日本経済への影響は、私たちが暮らすこの日本という社会の未来への信頼と安心を著しく崩壊させた。そして震災や原発事故、世界経済の混乱の余韻がいまだ収まらない今日、台頭しつつある新たな不安が、日本社会の大規模な「縮小」という、人口の推移分布などの各種統計予測が示す、私たちが逃れることのできない日本社会の未来像である。
この日本社会の「縮小」という問題、つまりは大幅な人口減とそれに基づく経済・市場規模の縮小と今日でさえも緊迫する財政状況などなどの、今後予想される社会問題がどのように解決されるのか。いやその解決の糸口が果たして存在しえるのか。先行きのまったく不透明な今日の社会において、どのような積極的な提案が成されえるのか。またそこでの建築家の姿とは。都市の姿とはいかなるものなのか。タイトルだけでも著しい期待を喚起させられるシンポジウムの内容決定であったといってよい。またそのシンポジウムをこの時期に行うことを決断したミサワホームAプロジェクト室の英断には、惜しみのない賞賛の声が寄せられるべきであろう。
シンポジウムの冒頭に藤村氏は野村総合研究所が発表したリサーチ「人口減少時代の住宅・土地利用・社会資本管理の問題とその解決へ向けて」の内容を引用し、“このまま現在の割合で新築戸建て住宅を建設していった場合、2040年には、空き屋率は43パーセントに達する”という衝撃の数値を提示した。実際には需給のバランスから空き屋率が高くなれば新築の着工件数が低下するであろうことは容易に推測されるため、これはいささか極端な数値予測ではあろう。しかしいずれにせよ近い将来、日本には無数の空き屋が林立し、その殆どが管理者がいないまま、国土全体に放置される。(おそらくは郊外か地方都市にこの風景は顕著なものとなり、地方駅前の「シャッター商店街」ならぬ郊外や地方都市近郊の「シャッター住宅街」が日本各地に出現することになるだろう)。この状況は翻って建設産業全域に影響を及ぼす。43パーセントの空き家が生み出されるならば、将来の建築的な需要は、いわば限りなく半減に近い状況になることが予測されるからである。果たしてそこでの建築家の役割とはどのようなものになるのか。藤村の冒頭の発言はそのような意味を多分に含んだ極めて挑戦的な問いかけであったといえるだろう。
それに対して応答を遂げたのは坂口恭平氏。「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」「TOKYO0円ハウス0円生活」などの数々の書籍の著者として知られるこの建築家は、0円で作ることが可能なモバイルハウスで生活し、都市のゴミ(坂口氏は「幸」(さち)と呼ぶ)を収集しサバイバルを繰り広げる過激な都市のライフスタイルの提唱者であり、震災後の原発の事故をきっかけに放射能から安全な熊本に新政府を樹立し、その「初代総理大臣」となった。Twitterでの彼の呼びかけを元に、実に多くの人間が彼の“統治”する“新政府”に押し寄せたことは、一部では広く知られている。
坂口氏は藤村氏の問いかけに、近作のプレゼンテーションのスライドを見せながら、新しいライフスタイルの提示を自作のさまざまなデザインのモバイルハウスの設計と共に行い、都市に溢れるゴミを集めることによって、ゼロ円で生活が可能な「労働を必要としない」社会が生み出されると説く。これは一面藤村氏が問うた今後の新しい社会の状況に相応しい、過激で極限的なヴィジョンの提示であるとは言えるだろう。しかし東浩紀氏はこの坂口氏のヴィジョンに対して、難渋を示しながらさまざまな問いかけを行った。曰く「ライフスタイルがサステイナブルではないのではないか」「若いうちには無理ができるというだけでないのか」等々。その後の議論は、坂口氏が提案し、そして自ら実践を行っている極限的なライフスタイルに対して、東氏の「それは現実的でない」「一般的でない」という応酬に終始をしたといえるだろう。
一方で東浩紀氏は、昨年末に「一般意思2.0」を上梓し、情報システムによって民意を可視化することによって新しい政治のあり方、国家のガヴァナンスが可能であることを説き、自身が編集長を務める「思想地図β」の次号では、国家のグランドヴィジョンについての議論を予定しているという。しかしながら、藤村氏が「一般意思2.0」と縮小してゆく今後の日本社会の関係について質問を投げかけたところ、東氏は「一般意思2.0」についてはこの場では語りたくない」と述べるに留まった。これは会場を訪れた大部分の聴衆にとって、おそらくは非常に残念な回答であったに違いない。東氏の「一般意思2.0」のアイディアが縮小を遂げてゆく今後の日本の社会のヴィジョンとどのように関連するのか(あるいはしないのか)、大多数の聴衆の関心がこの部分にあったであろうことは想像に難くないからだ。
筆者自身、この「一般意思2.0」と「縮小社会」の関係が語られることに大きな期待を寄せ、またその議論が坂口氏のカウンターカルチャー的なヴィジョンとどのように関連付けられるのかに注視をしたいと思っていたのだが、残念ながらシンポジウムは両者の意見を統合した知見を生み出すには至らなかったように思われる。しかしながら藤村氏がモデレートの最中に発言をしていた様々な内容には、今後の縮小社会の設計を考える上で有益な知見が散見されるのではないかと思われた。藤村氏は坂口氏と東氏の応戦をまとめるために、坂口氏に「その提案やライフスタイルが実現できるより建築的なモデルを提出するのはどうか」と問うた。これは非常に的を得た指摘だといえるだろう。東浩紀氏も述べていたが、極論を語ることは言説を流通させるために、あるいは研究をおこなうためには有効な戦略であるにせよ、それが一般解としての有効性をもつことは極めて困難である。藤村氏の指摘は、坂口氏の「都市型狩猟採集生活」あるいは「0円ハウス」という極端なライフスタイルの提案から、より実社会において意味を持つライフスタイル、あるいは建築の姿へと、昇華されえる可能性があるのではないかという提言なのだが、筆者自身も、もし坂口氏がそのようなより一般解へと昇華された新しいライフスタイルや建築の姿の提出をおこなったならば、より提案は魅力的で一層示唆を含むものになったと思うからである。この点に関しては、今後坂口氏と藤村氏が対話を重ねることによっていかなるアウトプットが生み出されるのか、期待をしたいところである。また、「縮小社会の設計」というシンポジウムのタイトルの持つ問いかけに対しても、藤村氏が質疑の中で、今後の「縮小社会」における建築家の姿としてプロジェクトを成立させるための「ストーリー」を組み立てることの重要性を語っている点には深く共鳴した。いままでのように建物が無条件に建つ時代ではなく、新しい時代においては、プロジェクトの与件の組み立てから建築家が介入してゆくという作業は、今後より一層の重要性を持つことだろう。1970年代のヨーロッパの絶望的な不況の時代に、当時デビューを果たしたばかりのレム・コールハース、アイゼンマン、ザハ・ハディド、ベルナール・チュミら、いわゆる「脱構築の建築家」達が、書物とダイアグラムとヴィジュアルを介してストーリーを組み立てて表現を行っていたことを、今後の社会における建築家という職業は不可避的に反復せざるを得なくなっているとも言えるだろう。
「縮小社会の設計」という問いに対して、建築家の職能とはどのように変化を遂げてゆくかというヴィジョンは上の藤村氏の発言のように、ある一定の回答が与えられたといっていいだろう。それでは一方で肝心の建築や都市の姿は一体のように変化を遂げてゆくのか。さらには縮小を遂げた私たちの日本の社会、そこにおける人々のライフスタイルはどのように変化を遂げているのだろうか。
私の考えでは、その姿は、坂口恭平氏の提出する放浪型のライフスタイルと東浩紀氏の提出する「一般意思2.0」のような情報システムの浸透が不可分に組み合わされた、新しいライフスタイルと建築、都市、社会のあり方の実現なのではないかと思われる。
坂口氏の「都市型狩猟採集生活」はある意味昔から提案されてきた「遊牧民的スタイル(ノマドロジー)」の変奏であるといってよい。(哲学・文学では80年代の浅田彰の「逃走論」、建築では伊東豊雄の風の変容体シリーズ「レストラン・ノマド」など、枚挙に暇がないであろう)。このノマド的な生活のスタイルは、実のところ今日の日本において再考されなくてはならないように思われる。なぜならば、日本の都市の一極集中が今日の日本の都市と経済の問題ではその問題の根幹に関わる原因となっており、その問題を解決するためには一極集中を防いでいかに多極中心の地方分権型の都市像、社会像を生み出すことが急務だからである。(ここでは詳細に触れないが、筆者が2009年にICCの展覧会で展示した「中心が移動し続ける都市」はそのような問題意識で生み出されており、多極中心でかつそれぞれの中心が時間軸で移動し続けてゆく都市のモデルを提示した)。ここで問題なのは、現在さまざまな識者が提案するように、もはや地方分権の必要性は自明ではあるものの、しかしながら誰からも「どうやって地方へと人口を分散させるか」という問題への有効な方法の提示がないことである。おそらく東氏の「一般意思2.0」のアイディアに見られるような、インターネット上のSNSなどの情報システムの更なる進化とその活用は、この地方分権を促進するための有効なシステムを生み出す可能性がある。
たとえば日本全国のどのような場所でどのようなイベントが行われているか。どのような人々がどこに集まり、次にどこへ去ってゆくか。共同体が空間上でどのように集まり、どこで何が繰り広げられているのか。そのような一覧とタイムラインがマッピングされるソーシャルアプリケーションは今後必ず開発されるものと思われる。(それは現在日本中で行われている音楽フェスなどのタイムテーブルと現在のSNSが組み合わさったものをイメージすると想像しやすい。大規模なフェスでは複数の会場で複数のタイムラインが出演するアーティスト達の登場の順番を表示するが、このようなタイムテーブルが領域を問わずさまざまなアクティビティを包含し、日本全国に渡ってマッピングされ、日本全国のどこで何が次に展開するかを知らせるという類の新しいソーシャルアプリケーションである。仮にここでは「分流のアプリケーション」と名づけたい。)そこで人々が集合離散を日本全国のレベルで展開を遂げてゆけば、いずれ地方分散、地方分権の問題は、より一層解決可能なものとなってゆくだろう。そして近い将来日本には有り余るほど空き屋が溢れ、それらは時間軸で変化を遂げてゆくアクティビティ、集合離散を繰り広げるコミュニティ(島宇宙)の受け皿となることだろう。そこで建築や都市は、この人々の集合離散を促すタイムテーブルを管理する新たなSNSのような情報システムと一体となり、より仮設的でテンポラリーな性格を強めてゆくだろう。もし固定的な建物が必要とされるならば、それはタイムライン上の結節点として、よりアクティビティが固定的なもののために作られることになるだろう。「縮小社会の設計」とは、そしてそこにおける建築と都市の姿とは、おそらくはこのようなイメージをその基軸に据えるものとなるだろう。本シンポジウムで提出されたアイディアは、そのようなイメージへと連なってゆく一つの流れの中にあるのではないかと私には感じられた。