"Discrete"をめぐって
富井雄太郎
後半はディスカッションですが、今回のシンポジウムのテーマとなっている"Discrete"をめぐってのものになると思います。まずその前に、原さんが今日のためにあるDVDを用意されているそうなので、そちらからお願いします。
原広司
"Discrete"という概念は一般的に集合があり、そこにある構造・ルールを入れる時、最も組合せが多くなる、多様性を持っているというものです。連続体"continuum"に対して、個、バラバラである、独立しているという"individium"という概念がありますが、後者寄りの概念です。"Discrete"自体はあまりにも単純なため、トリビアル、取るに足らないと、数学ではあまり問題にされません。最大の可能性を示していますから、先ほどコミュニティという概念が"Discrete"には含まれていると言いましたが、それは当然です。最も分かりやすく、理念的なことを言っています。
かつて、デスティニーズ・チャイルドの編成で説明したことがあります(笑)。なぜ彼女たちが支持されるのかと。彼女たちは、黙っている時(空集合)、ひとりひとりが歌っている時、ふたりで歌っている時、3人で歌っているという時……、という組合せ・集合の多様性を展開しています。そのように、モノでも人でも、最も多様な組合せをつくろうというのはそれほど新しい考え方ではなく、昔からあるものです。
今日はそのひとつとしてジャズを持ってきました。ビル・エヴァンス・トリオによるオスロでの記念碑的なコンサート「枯葉」です。"Discrete"が完全な形でスパッとできているかどうかは疑問ですが、それらしい多様な組合せが実現されていると思います。そのような意識で見てみてください。

(会場映像「枯葉」ビル・エヴァンス・トリオ)

サイレンス(空集合)ということがはっきりと表現できていたかどうかは分かりませんが、つまり全体とそれぞれのソロ部分の組合せがすべて等価であるということです。多数決のように全体だけが意味を持っているというものは、"Discrete"の概念からはほど遠い。"Discrete"とは、全体も部分であって、「ひとり」という集合とも等価なあり方です。先ほど距離のことを盛んに言いましたが、"Discrete"はあらゆる可能性があり、すべてが等距離であるという特性を持っています。いつもみんなが共同で働かなくてはいけないという集落が多いわけですが、"Discrete"な集落はそうではない。個々がバラバラで、でも真剣に生きていかなくてはいけないという状況が同時にあるということです。
富井雄太郎
議論のきっかけとして、ある意味で情報空間は無限の広がりを持っているように思われていますが、実はインターネット上のウェブサイトや人間関係の繋がりなどには、多数のリンクを持った少数のハブとそれ以外の大多数というような、べき乗則やロングテールといった自生的な構造やルールが発見されています。要するに無限の組合せやただのランダムネスではないと。そのあたりは柄沢さんも引っ掛かっているところがあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
柄沢祐輔
原さんが映像を持ってこられたようなジャズのアドリブが行われるようになった歴史が、第二次世界大戦の最中に生まれたバップというジャンルからであろうというように言われています。バップによって、それまでのスウィング・ジャズにはなかった、個々のプレイヤーの自律性を高めたアドリブ演奏がなされるようになります。
そのようなことがどうして起こったのかと言うと、ひとつにはバークリーメソッドという音楽理論が生み出されたことにあります。それはコード・シンボルを駆使するという、今のポピュラー・ミュージックのベースにも繋がるような、まったく新しいスタイルでした。コードが生まれた時に、それまでの西洋の音楽、つまりバッハ以降の平均律によってコントロールされていた譜面から解放され、ある一定のルールを守りつつも、それ以外にアドリブを自由に展開してもよいというような、いわばパラダイム(規範)の転換がありました。それによってジャズに個々のアドリブが生まれ、ポピュラー・ミュージックも大きく展開しました。
そのことを建築についてもメタフォリカル(比喩的)に言えば、建築を長い間支配している均質空間というものは、バッハ以降の平均律の空間に当てはまります。それを解体しようとしたポストモダニズムは、どうやらうまくいかないということは多くの人の共通認識になっていると思います。そのような状況の中で、今後、バークリーメソッドのようなものをいかに建築の世界で生み出せるかを考えることもできると思います。
原さんは均質空間と平均律、そして離散性との関係についてどう考えられますか。
「均質空間」を崩す萌芽 ― 「環境」と「情報」
原広司
僕は建築を始めた時から、問題は均質空間にあると考えていましたし、そういう問題意識を持っている人は沢山います。 そもそも超高層と均質空間を区別できない人がいますが、これは違います。たとえば、柄沢君がやっているような方法で超高層をつくれば、均質空間ではない超高層も可能なのかもしれません。9.11の出来事はよいとは思えないけれど、あれは超高層が対象となっていたのではなく、均質空間が対象で、それを破壊したのです。
均質空間はデカルト以来、必然的に生まれてきたもので、それをミース・ファン・デル・ローエが図式的に整理しました。この「スタイル」ができあがるまで400年ほどの時間が掛かっていて、問題であると気付いていても、それを乗り越えるのはそう簡単ではありません。均質空間の思想的根拠は、自然から切り離して人間の快適な空間を再構築するということで、つまり第二の自然をつくるという考え方です。
しかし、今これに対抗して「環境」が圧倒的に応援をしてくれています。かつては、均質空間は当たり前のもので、みんなそうなるに決まってるという話だったわけですが、近年どうやらそうではないということがよくわかってきました。これは東日本大地震の問題も関係します。
僕は均質空間の問題を言い出してからもう40年以上経つわけですが、「どうもまずいんじゃないか」、「均質空間という発想自体が地球の危機だ」とストレートに言っても、今までそれに賛同するような徴候はまったく見られなかったものです。しかし、近年ようやくみんながそうかと気が付き始めています。
もうひとつは、今日の話でも重要なところになりますが、コンピュータにサイト(場所)があるということです。これは均質空間が考えもしなかったことだと思います。それを理解し把握することで、均質空間を崩す、新しい空間概念ができ上がるんじゃないかと思っています。そして、いろいろなことのスピードが上がってきていますから、400年も掛からないような気がしています。「これこそがその空間概念だ」とわかり易く示されるまでに、そう遠くはないのではないかと。
1920年代にミースによる「ガラスのフリードリヒ街」のスケッチが出されてから100年近くが経とうとしています。そのスケッチ以前にも均質空間は沢山実現されていましたが、あの鮮やかなスケッチが描かれた時にみんながわかったわけです。
とにかく今はみんなが均質空間と違うものをつくりたいとあがいているわけです。ポストモダンもそうでしたし、僕も柄沢君もそうです。均質空間は座標を元に考えていますので、非常にわかりやすく、都合がいいものです。たとえばオフィスには決められた明るさや温度、風速があり、常に同じ環境をつくることができます。それによれば複雑なことが起きないから考えるのが楽ですし、非常に有効でもあります。ですが、座標系の中で複雑なことを考えるということではなく、座標系を持たないという方法が出てきています。バークリーメソッドもその流れです。お互いに違ったふたつの曲面の繋ぎを求めるとか、そういったことには挑戦していく必要があると思います。
僕の若い頃は、均質空間を破ることなんてできないから、何が何だかわけがわからないことをやるしかないという状態でした。しかし、いつか新しい空間概念が生まれた時に歴史が書かれることになるであろう、その時のためにわれわれはやっているという考え方は、ただ闇雲に建築をつくるよりもはるかによいと思います。
柄沢祐輔
今のお話を少し整理させていただくと、コンピュータの登場によって均質空間ではないものをつくる可能性が出てきているということだと思います。そこでは座標系は任意であって、一義的ではないと言えます。楽譜に喩えれば、沢山の線が縦横無尽に錯綜していて、ひとつのリニアな座標系ではないような楽譜からの音楽も今や生み出せる状況にあります。そう考えていくと、建築のブレークスルーのいろいろな可能性があるのではないかと思います。
そして、そのベースになる考え方を言い表すならば、陳腐ではありますが、ネットワーク的なものということではないでしょうか。つまり空間上を行きつ戻りつフィードバックをしながら繋がっていくようなもの、散乱した空間の状況に対してある繋がりを定義をしていくようなもの、ただのランダムではなく、ある一定のルールをどう整備していくかということが、これからの建築が持つひとつの可能性ではないかと考えています。
原広司
さまざまなアプローチがあると思いますし、考え方はそれぞれいろいろあります。
ただし、近代というものが相手なわけですから相当手強い。20世紀に、資本主義に対してさまざまな挑戦がありましたがみんな失敗し、ますます資本主義は力を持っているという状況になっています。僕が「均質空間論」を書いた時は、資本主義において均質空間は絶対的な条件に見えていました。最近は、われわれがあがいていることも既に資本主義の中に取り込まれているかもしれないというような、ある種の恐怖感も持っています。



次回[4]へ続く。
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