イベントレポート
■講座趣旨:

今年は、戦後69年目を迎えましたが、7月に発表された「平成25年度・住宅土地統計調査」によれば2013年の空家数は820万戸になり、空家率は13,5%になりました。また、平成21年から平成25年までの5年間の新築住宅着工件数は平成21年に80万戸を割り込むなど、いままでの新築着工件数に比べ大幅な落ち込みとなりました。われわれ住宅を扱うものにとって、今後ますます少子高齢化が進む可能性が予測されますが果たしてこのまま今までのようなつくり方でよいのか考えさせられます。 そこで今回、早くから住宅の工業化に関心をお持ちになり、「箱の家」や無印の「木の家」などでローコストで高性能の住宅づくりを実践されている難波和彦さんと大学で環境住宅を研究され、二世帯のご自宅で可変可能な空間をつくり、家族構成が変化してもいかようにも対応できる住まいをつくられた、古谷誠章さんをお招きしてシンポジウムを行います。 われわれは、これからの住宅の生産を考えるにあたって、建築家の作品も、ハウスメーカーの住宅も、建築の流通において、部品やコストや収益の問題をともにしていかないと両者の新しい協働の形は見えてこないと考えています。 そこで、ますます小さくなっていくマーケットをいかに共有できるかが今後の課題になると思います。 今まで敵対関係であった諸々の問題を超えて、それぞれのよさを持ち寄りながら、“ちょっといいよね”、といった新しい利用法などが見出せたり、または、どこまで両者の現在的な役割や意義を問うことができるか。お二人の建築家の対話が、来場者のみなさんにとって、これからの時代の住宅をつくるヒントが導き出せればいいなと思っています
■出席者略歴

難波和彦
1947年大阪生まれ。東京大学建築学科卒業。同大学院博士課程修了。1996年一級建築士事務所株式会社 難波和彦+界工作舎代表。2010年〜東京大学名誉教授。
1995年新建築吉岡賞、住宅建築賞、東京建築賞。1998年住宅建築賞。2004年JIA環境建築賞。

古谷誠章
東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。同大学院博士後期課程修了。1986年文化庁芸術家在外研修員としてスイスの建築家マリオ・ボッタ事務所に在籍。近畿大学講師、同大学教授を経て、1994年早稲田大学理工学部助教授、同年設計事務所であるNASCAを八木佐千子と共同設立。2007年日本建築学会賞作品賞、日本建築学会作品選奨、日本建築家協会賞、2011年・2010年度日本芸術院賞

門脇耕三
1977年神奈川県生まれ。2000年東京都立大学卒業。2001年東京都立大学大学院修士課程修了。 東京都立大学助手、首都大学東京を経て、2012年明治大学専任講師。博士(工学)。著書に『シェアをデザインする−変わるコミュニティ、ビジネス、クリエイションの現場』(学芸出版社)、作品に「目白台の住宅」(メジロスタジオと協働)など。

■日時:2014年9月29日(月)
■場所:新宿NSビル16階 インテリアホール
■主催:ミサワホーム株式会社 Aプロジェクト室
■企画・監修:大島滋(Aプロジェクト室)
リーフレット
 
ハウスメーカーと建築家の恊働の接点を考える
大島滋
Aプロジェクト
今回で11回目となる本シンポジウムは「ハウスメーカーと建築家の恊働の接点を考える」というテーマでおこないます。私は20年以上ミサワホームの内部にいながら外部の建築家と仕事をしてきました。建築家とハウスメーカーは、手つくりと工業製品というような、相反するつくり方をするせいか敵対関係に見られることがよくあります。その中でAプロジェクトをこれまで続けて来られたのは、理解ある上司の存在ももちろんのこと、なにより建築家の創意溢れる提案があったればこそだと思います。競合他社がひしめく中で仕事を勝ち取るためには、この提案が勝負になってきます。3年前にはじめてAプロの建築家を採用して、ミサワホームのパネル工法を使ったアパート付き次世代住宅をプロデュースしました。建築家に頼むと予算・工期ともにクライアントの要望を超えてしまうことが多いのですが、できあがってみればクライアントの評判も良く、ハウスメーカーの技術力や品質はたいしたものだと実感しました。 一方で、いま住宅を取り巻く環境は良くない方向に向かっているように感じます。労務費や材料費の高騰で非常に予算的にも厳しいですし、それ以上に空家が800万戸を超えて社会問題になっている。我々住宅に携わる人間にとっては避けては通れない問題だと考えています。
今日は、住まいのプロフェッショナルの難波和彦先生と、世界中を飛び回って建築の可能性を追求している古谷誠章先生のお二人とお招きし、若き建築学者の門脇耕三先生に司会をお願いして、これからの住まいの可能性についてディスカッションしていただきたいと思います。時代が急速に変化して行く中で、今後ハウスメーカーと建築家はどのような住まいをつくっていけばいいのか、これからの住まいを考える上で、住まいのさまざまな可能性についてご来場者のヒントとなれば良いと思います。
門脇
ご紹介にあずかりました門脇です。今日のタイトルは「ハウスメーカーと建築家の恊働の接点を考える」です。「ハウスメーカー」と「建築家」がキーワードになっていますが、この二つの共通基盤は言うまでもなく住宅産業です。住宅産業は今、大きく姿を変えていることは皆さんも実感していると思います。一時期は年間200万戸をこえる住宅の供給数を日本は誇っていたわけですが、現在は100万戸を下回る状況です。かつてのハウスメーカーは、不足していた住宅を大量に供給するという社会的役割を担い、一方で建築家は、そこからこぼれ落ちるニーズをつかまえ創造的な住宅をつくり、住宅像を現代的に更新することによって住宅産業を牽引する、という役割を果たしえました。そこでは、両者の幸せな共存関係を見て取れます。しかし現在では、その前提が大きくゆらいでいる。こうした状況において、住宅あるいは住宅産業をどのように捉え直すことができるのか。それを考えることが今日のシンポジウムの主旨です。このような時代には必然的に、ハウスメーカーや建築家の役割も変わっていくでしょうから、それは果たしてどのような変化なのか。それを難波和彦先生と古谷誠章先生の対話を通じて考えて行きたいと思っています。まずお二人からご自身のお仕事をご紹介いただきながらこの問題に答えていただき、その後ディスカッションへとつなげていきたいと思います。それでは難波先生からよろしくお願いします。
難波
大島さんから建築家とハウスメーカーは対立する、という話がありましたが、僕はそういう建築家ではありません。頻繁にハウスメーカーから呼ばれて、いかにハウスメーカーと建築家の中間的な仕事をしているかという話をします。「中間建築家」と呼ばれているので対立感覚はありません。そもそも師匠である池辺陽が戦後やろうとしたことは、ハウスメーカーをいかにエスタブリッシュさせるかという仕事でした。というわけで、接点を考えるというよりは接点をいかに築いてきたかの話をしたいと思います。
住宅産業をめぐる状況
 
はじめに現在の状況を整理します。1990年以降のバブル崩壊がまずあり、それに追い打ちをかけるように2007年にサブプライムローン破綻とリーマンショックがありました。そこで日本の建設産業はしぼんでしまい職人が一斉に辞めてしまします。その後3.11を経て、アベノミクスが公共事業を乱発して建設受容が大幅に増えたけど、供給力がないために昨年あたりから建設物価と労務費が高騰している、というのがここ20年くらいの状況です。
1963年から50年間の総住宅数と世帯数と空家率の関係(資料1-2)を見ると、



68年あたりで既に世帯数と住戸数が同じになっている。73年には既に世帯数より住宅数が増えて、98年で5,000万戸住宅のストックがあり空家率は12%に達しています。住宅が余っている状況は今に始まったことではなく、70年代から既に始まっていたことなんです。それがどんどん広がっているだけですね。去年の総務省の発表では、空家数が820万戸。2013年の時点で日本の総住戸数は6,000万戸ですから空家率は約13.5%。にもかかわらずどんどん新築はつくられているわけで、その理由は何かということが解明すべき問題です。
住宅産業については空家の問題だけでなく、70年代に大きな政策転換がありました。決定的なのは住宅金融公庫の民間委託と住宅公団がUR都市機構に再編され、全ての住宅供給が民営化されたことです。それから少子化高齢化。家族形態の変化。大都市への人口集中。これは東京、大阪、名古屋、広島、仙台は徐々に増えていて、地方はどんどん人口が減っている。日本全体では人口は減っているけど、大都市の人口は減っていない。これがおそらく空家があるにもかかわらず住宅が建てられ続けることのひとつの原因でしょう。
このようにいろいろある問題の中で、今私が最も注目していることは、住宅をつくる部品がほぼ工業化されたことです。自然素材といえども工業製品となった。いまや工業製品をいかに組み合わせるかで住宅を設計するような時代で、かつてのように部品を開発しつつ住宅を設計していくという時代ではない。そうした状況で、私の元同僚の松村秀一さんは「もう建築家は必要ない」と言っている。もうひとつは、住宅ローンが証券化されたことです。住宅が不動産ではなくて、流動資産になったということです。タイムスパンを広げてみれば、住宅金融公庫ができたのが1950年で、これが決定的でした。個人にローンを課して「自分の家は自分で建てろ」「そのかわり低利子でお金を貸します」というシステムがアメリカから輸入されました。このような政策を採用しているのは世界でアメリカと日本だけです。アメリカは2007年にサブプライムローンが破綻しましたけど、日本はまだ破綻していない。これは何故かというのがひとつの謎です。僕なりに答えはあるけど、長くなるので今日は割愛します。
建築家はいかに工業化住宅にとりくんできたか
 
こうした歴史をふまえて、建築家が工業化住宅にいかに取り組んで来たか、いくつか事例を紹介します。1949年の前川国男の「プレモス」(資料3左上)。同時期に坂倉準三が開発した木造のA型構造体(資料3右上)。本格的に工業化住宅が目指されたのは1959年の大和ハウス工業の「ミゼットハウス」(資料3左下)ですね。これは勉強部屋だったので水廻りは入っていません。水廻りを持った最初のハウスメーカー住宅はセキスイハウスの「セキスイハウスA型」(資料3右下)です。これは東京大学内田研究室の指導を受けています。



アメリカの西海岸では、日本に先駆けて1940-50年代にケーススタディハウスがつくられます。一番有名な8番の「イームズ・ハウス」(資料4)。ほとんどの鉄骨部品をカタログから選んでつくった住宅です。



建築家とオーナーを合わせるというAプロジェクトみたいなことを、当時の雑誌が企画をしてやりました。同じようなことを日本でもモダンリビング誌がやった。最初が池辺陽の「ケーススタディハウスNo1(石津邸)」(資料5)ですけど、2番が大高正人、3番が増沢殉でした。



これも建築家と建主を雑誌が結びつけるこころみでした。「ケーススタディハウスNo1」は石津謙介の自邸です。VANというプレタポルテメーカーの社長の家です。池辺は工業化を推進しようとしていましたが、工業化が一番難しいのが住宅で、住宅が工業化されない限り工業化は完成しない、と絶えず話していました。 60年代の事例では、最近注目されている内田研出身の剣持玲さん。剣持勇の息子ですが、72年に亡くなったので活動は短いです。「規格構成材方式」という既製品を組み合わせて住宅をつくるということをやりました。「規格構成材」というのはコンポーネントの略です。第一号は竣工後50年経ちますがまだ建っています(資料6)。



60-70年代はメタボリズムですが、最もプラクティカルに実践したのが内田研出身の大野勝彦が開発した「セキスイハイムM1 」(資料7)です。



キューブを工場でつくり、それをスタッキングして住宅にする。初期はキューブが外観に現れていましたが、今は屋根を載せて全体がカバーされた普通の家になってしまっています。これは売れなかったみたいです、かっこいいけど。こうしたハウスメーカーと建築家の蜜月な恊働が60年代にはありました。 伊東豊雄さんも昔は自分でシステムつくってザッハリッヒな住宅を設計していました。結局「梅が丘の家」の一件しか建たなかったですが、この頃から建築家とハウスメーカーが交わらなくなっていった気がします。最近では、『新建築住宅特集』2014年5月号に掲載された「カーサシリーズ」という、若い建築家とパワービルダー(工務店)が恊働した工業化と商品化へのアプローチがあります。吉村靖孝さんと長谷川豪さんと五十嵐惇さんが参加しているようです。 僕自身も「箱の家」というシリーズをやっています(資料8・9)。



「物理性」「エネルギー性」「機能性」「記号性」という4層構造の考え方(資料10)で住宅の要素を工業部品化し、コストパフォーマスンスを最適化して、自然エネルギーを取り入れて、一室空間で箱型のデザイン、というコンセプトの住宅をつくっています。アルミの家もつくりました。アルミの部品を開発して、それを一般化して確認申請ができるようなシステムをつくりました。



そうこうするうちに、無印の家をつくらないかという依頼が来ました。無印は生活する部品を全部持っているので、その容れ物をつくれということですね。そのシステムを提案して「MUJI HOUSE」を2002年に開発しました(資料11)。



2004年に売り出して最初は出足が悪かったんですが、最近は良く売れているようです。僕としてはまったくハウスメーカーと対立しているつもりなくて、住宅供給の今後の問題も4層構造で整理しています(資料12)。このようにハウスメーカー的なことをやりつつ、追走並走しながら問題を提供しています。



門脇
難波先生ありがとうございました。難波先生からは住宅産業の変化と、その背景としての社会の変化を整理していただきました。非常に面白かったのは、日本の戦後の住宅産業はほとんど工業化の歴史であったということです。かつ、住宅生産の工業化の初期段階においては、建築家とハウスメーカーが協働してこの課題に取り組んでいたわけですが、住宅生産の工業化が進んでいき、それが当たり前なるにしたがって、建築家はその枠組みから外れていくという図式が見て取れました。現在の若手建築家とハウスメーカーの取り組みもご紹介いただきましたが、そこで登場するハウスメーカーは、工業化した構法を家づくりの基本に置いているメーカーというよりは、パワービルダーのような大規模な工務店であり、かつてとは様相が異なっていると言えると思います。ただ、難波先生は今現在も工業生産的な住宅に建築家がどのようにコミットできるかを試みられ続けていて、「MUJIハウス」が10年間で1000戸というのはものすごいことだと思います。つまり、工業生産化が進んだ住宅においても現代的な課題はあるのでしょうし、むしろそうした場所にこそ、建築家もハウスメーカーも挑戦する余地があると宣言されていたと思えました。 では、つづいて古谷先生お願いします。

次回[2]へ続く。
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